益子の陶芸家・オオタカマサキ

陶芸の郷、益子での作陶活動や春と秋の益子陶器市のレポート。 創立1927年。板谷波山の「東陶会」の活動の様子。 趣味の自転車のあれこれなどを紹介していきます。

2017年06月

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夕方になって仕事も一段落。

ぶらりと自転車でお使いに出かけました。

真っすぐな農道を走っているとキレイな夕焼けが空一面に・・・

田んぼの水面にも夕日が映り思わず見とれてしまいました。

見ていたら頭の中にお気に入りのサウンドも流れてきました。


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東陶会とは板谷波山先生が創立された陶芸の会です。

昭和2年に作られ今年で90年周年を迎える事となりました。

とはいえ、会の歴史を詳しく知る方も多くはなく、今までの資料と言うものもありません。

波山先生に関しては毎年行なわれる「波山の夕べ」で色々な側面から人物像を学ばせて戴いてます。


今年の波山の夕べでは偶然にも元・東陶会会員でありました古宇田正雄さんのご家族とお目にかかれ

連絡先を教えて戴いたものですから、昨日つくば市洞下の古宇田さんを訪ねて見ました。


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古宇田正雄さんは東京美術学校(現・芸大)に事務員として在職中、

お父さんと波山先生が小学校での同級生で有られた事がきっかけとなり

波山から陶芸の手ほどきを受けることになります。


その後日本は戦争という時代になって行くのですが

不穏な東京から疎開した先が洞下の古宇田邸となるのです。

現在でも古宇田さんの広い邸内に窯小屋と波山先生の為に作られた工房が残っています。


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戦争中という中でも制作は欠かさなかったようですが、

これを支援した方々の一人に下館の老田繁蔵という方がおりました。

当時ですから舗装してない道を下館から洞下まで自転車で米や不足する物を届けたそうです。

実は今回訪問に同行したのが老田繁蔵さんの孫にあたるユーイチ君です。(同級生です。)


彼も洞下を訪ねるのは初めてだと言っていましたが

意外にも工房の修理に使われていたのが硝子を梱包する際に使われていたと思われる板でした。

板谷波山と老田家の繋がりを感じさせるエピソードです。(老田家は硝子屋さんです。)

(↓18という数字は板ガラスの枚数を示すものだと教えてくれました。)


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奥の工房は窯小屋兼粘土置き場・釉薬かけなどの作業にされていたようです。

↓手前の小屋は波山先生の為に新築した工房で寝泊まりが出来るように8畳ほどの和室があります。


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ここで現田さんと共に制作に明け暮れていたのですね。感慨深いものがあります。

今でも轆轤台が残っており、蹴ロクロに座っていた現田さんの姿が見える気がしました。


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小屋の裏からは筑波山が間近に見えます。

仕事の終わった後にこの場所で小唄を吟じていたと教えて戴きました。

確かに気持ちよく歌えそうですね。


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↓窯小屋の方も見せていただきました。

両側から薪を入れて焚くようですね。ここで作られた作品が「黒飴磁仏手柑彫文花瓶」です。


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使用したサヤ・材料なども残っていました。

たぶん?古宇田さんの制作していた香合も素焼きのまま棚に残ってます。一つ欲しかった!


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古宇田さんは粘土も自分で作っていたそうで、粘土を作る苦労が忍ばれます。

古宇田正雄さんの息子の昭夫さんも昨年他界され

あと少しお会いすることが早ければ色々と話しが聞けたかもしれません。


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思いかえすと気軽な気持ちで東陶会に入ってしまいましたが

こうやって先人の苦労を聞くたびに、改めて気の引き締まる思いになります。


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今は何と恵まれた中で作陶に打ち込めるのかと改めて思います。

この陶片の中に数々の苦労と希望が眠っているのかも知れませんね。


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また機会があればぜひ訪れて見たいと思います。

古宇田さんには色々とお世話になりまして、ありがとうございました。


*私事ですが東陶会事務局を仰せつかりました!次の100周年に向けて頑張ります。



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